2008年01月20日

不思議

  薔薇ノ木ニ

  薔薇ノ花サク

  ナニゴトノ不思議ナケレド

(北原白秋『薔薇二曲』から。)

「何の不思議もないけれど」と、

あらためて言われると、

いろいろなことが奇跡のような気がしてくる。
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2008年01月16日

豆腐

ある日、スーパーマーケットで豆腐を見ている時に、

店内放送がかかった。

「本日はご来店いただきまして、ほんとにありがとうございます」

「ほんとに」って。笑いました。

他の人から私は「豆腐を見て思わず笑ってしまった人」に見えたかもしれません。

生きていれば、多かれ少なかれ、人間は必ず誤解される。

あとで「あれは誤解されてたんだ」なんて気づくこともある。

誤解を解こうとすればするほど、かえってダメな場合が多い気がします。

むしろ、そういうことはあるもんだと割り切って、

放っておくほうがいい。

傲慢かもしれないけれど。

思えば、茶道にしても、礼法にしても、

誤解を少なくするためのしくみのような気がする。
posted by MAC at 22:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月14日

発想

制約のあるほうが自由を感じるということがあります。

「何でもいいから文章を書いて」と言われるより、

「動物をテーマにして文章を書いて」と言われる方が書きやすい気がする。

選択肢が多すぎると、かえって創造力が低下するものらしい。

ある程度、制約のあるほうが、発想が自由になりやすい気がします。

お茶には制約が多いはずなんですが、

ふと、自由の楽しさを感じることがあります。

お道具を選んだり、茶杓に銘を付けたりする時など。

問答も本来はそうなんでしょうね。
posted by MAC at 20:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月10日

喩え癖

前に、テレビで、

あるマラソン解説者と仲のいいらしい女性タレントが、

ふざけて悪口を言うような調子で、

「彼女って、何でもマラソンに喩えてしまうんですよ」

と言っていた。

別に悪いことではありませんよね。

お茶の先生も色々なことを頭の中で茶道に喩えてしまうそうです。

私の場合は活字中毒の気があるので、つい、

そういえばあの本にもこんなこと書いてあったなあ、

なんて考えてしまいます。

要は、マラソンで喩えられることは、お茶でも喩えられて、

そのようなことを書いた本も、どこかに必ずあるでしょう。

根本的なことは全てに通ずるんじゃないかしら。
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2008年01月09日

あたりまえ

お茶の先生から、金子みすゞの詩のお話を伺った。

   不思議
  
  私は不思議でたまらない 

  黒い雲からふる雨が 銀にひかつてゐることが
  
  私は不思議でたまらない 

  青い桑の葉たべてゐる 蚕が白くなることが
  
  私は不思議でたまらない 

  たれもいぢらぬ夕顔が ひとりでぱらりと開くのが
  
  私は不思議でたまらない 

  誰に聞いても笑つてて あたりまへだ、といふことが

そういえば、安部公房がどこかで、

コンピュータは、答えは出せるが、問題を作ることはできない、

というようなことを書いていました。

問題を作る能力、つまり、

「不思議だなあ、どうしてだろう」

という感覚は大変に創造的なものだと思う。

それが「あたりまえ」のことほど。
posted by MAC at 17:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

アフォーダンス

佐藤雅彦さんの『プチ哲学』からの受け売りですが、

テニスのラケットも、野球のバットも、

こう持ってくださいという形をしてます。

むこうからこう使ってくださいという働きかけをしてる。

これを「アフォーダンス(与えること)」というそうです。

で、何でこんなことを書いたかというと、

お菓子の盛り付け方もそうなんだと教わったからです。

「一番最初には、ここから取ってください」

とお正客に呼びかけるような置き方をする。

「どこからでも取ってください」というのは、

意外と不自由なものですものね。

言葉だけでいえば「どこからでも」の方が自由度は高いのに。
posted by MAC at 21:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月06日

下手ということ

前に、立川談志さんが、

  オレのスゴイところは、

  下手にできること。

  これは志ん朝とか小沢昭一とかにはできないよ。

とおっしゃっていました。

私は非常に納得がいきました。

ボブ・ディランも、マイルス・デイビスも、パブロ・ピカソも、

「下手にできるから天才」という基準で測れる気がする。

この人たちは「普通」に(「上手」に)やってもすごいけれど、

表現のためなら技術を捨てて平気でいる。

お茶の先生から、

茶道の世界では「99」という数字は珍重されると伺った。

「100」を完全な数字とすれば、

少しだけ不完全な方が美しいという感じ方。

確かにそうだなあと思います。

そういえば、サックス奏者のデイヴ・リーブマンが、

マイルス・デイビスのトランペットについて、

  マイルスは自分の吹きたいと思うフレーズを完結させないで、

  途中で未完のまま中断してしまう。(中略)

  マイルスはよく私に言ったものだ。

  「フレーズを最後まで吹き切る必要はない」と。

と言ってました(マイルス・デイビス『パンゲア』の解説より。)
posted by MAC at 17:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

DNA

武村政春さんの『脱DNA宣言』を読みました。

RNA(リボ核酸)はDNA(デオキシリボ核酸)を基にコピーされるが、

DNAは単なるRNAの設計図(バックアップコピー)に過ぎず、

RNAこそが遺伝子である、と書いてあった。

RNAはDNAに比べて不安定で壊れやすいそうですが、

適応力のようなものがあるという意味なんでしょうね。

適応力とコピーミスとは表裏。

「右向け右!」と言われて左を向くのは「ミス」ですが、

そのおかげで左から来るミサイルにいち早く気づくかもしれない。

変な喩えですが、

「ミス」が功を奏するのが「適応力」だと思う。

今までとは違うふうにやってみようという意識的な「ミス」も含めて。
posted by MAC at 11:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

失敗

誰の世話にもならずに(誰にも迷惑をかけずに)、

生きることは無理です。

だから、あきらめて堂々と失敗しよう。

なんて言っても、やっぱり失敗は嫌です。

失敗が不安だから、緊張もする。

人に迷惑をかけてしまうことなら、なおさら。

そうではなくても、

失敗するのは、なんだかんだ言って恥ずかしいことがある。

でも、失敗の不安は、

自信とイコールのような気がします。

例えば、100m走で10秒を切れなくても、

陸上のド素人であれば、

自分自身で失敗だなんて思わないでしょう。

けれど、世界のトップ選手なら、

10秒を切れなかったことが本人にとって失敗となりうる。

自信があるからです。

当然できるという自信があるから失敗と認識される。

不安は自信の表れと見て、

不安がある時というのは自分が伸びようとしている時だ、

と考えると、ちょっと面白くなってきます。

失敗してもいいんだ、だけでは傲慢じゃないかと。

で、何の話かというと、

茶道のお稽古をする時の自分なりの心構えです。

しかし、そもそも個性あるいは芸術性って、

失敗から生まれるような気がします。

というより、失敗そのものかも。
posted by MAC at 17:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする